“没後50年 愛情の画家 椿貞雄” 展 |
静物を見詰めながら描く写実の中に、椿貞雄にしか表現できないその質感や量感や存在感満ち溢れる静物画に、私は終始見せられながら、彼独特の静物画に対するそんな強い思いを、いつの間にか数々の人物画にも、同じような感覚を感じ、知らず知らずのうちに引き付けられていった。
昨年12月18日から今月の1日まで、山形美術館において、山形県は米沢市出身の画家、「゛椿貞雄」の没後50年を記念し、「愛情の画家 椿貞雄 展」が開催されていた。
『麗子微笑』の絵で広く知られる、大正~昭和初期の洋画家「岸田劉生」と、運命的な出会いを果した「椿貞雄」は、「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という、劉生の理想に感銘し、写実を通して「内なる美」を、共に目指したのだった。
(左:画「岸田劉生」『麗子微笑』1921年。右:画「岸田劉生」『道路と土手と塀』1915年。)
劉生亡き後、その理念の継承者となった椿貞雄。劉生に大きく影響を受けたのだろう・・その似た筆のタッチや色彩の力強さと、圧倒的なパワーのあるその構図は、いつの間にか「椿貞雄」自身の手法となっていく。
(左:画「椿貞雄」『八重子像』1918年。右:画「椿貞雄」『赤土の山』1915年。)
戦後間もないころ、孫に囲まれながら穏やかで平和な暮らしやその営みから、彼は幸福感を体で感じていたのだろう。大らかで力強さの中にもほっとするような柔らかさを感じさせるこの絵を見詰めていると、「やっと劉生を意識することなく自由に絵が描けるようになった。」というこの頃の彼の言葉どおり、劉生の存在に縛られていたそんな彼がようやく解放され、そして知らず知らずに戦後体制からも解放されていった椿の、その“こころ”の内側を垣間見る思いがした。
1957年、長崎旅行から帰った「椿貞雄」は、自分の体の異常に気がつき、千葉医大に入院するその朝、見舞いにもらった椿の花を自ら透明な器に差し込み、どんな思いで描いていたのだろうか・・?、迎えの車がくる僅かの時間で描いたこの絵が、最期の1枚となったのだった。自分の体を襲った“病”を引き受けながらも、その迷いの無い力強い筆のタッチやその構図は、明らかに私の知る「椿貞雄」・・そのものだった。
(絵は全て図録より)