「田植女」 なぜ体だけ写したのか・・! |
そして、この写真を解説している朝日新聞社東京本社学芸部 記者“大西若人”の、鋭く的確な分析が面白い。彼は冒頭で、“写真”・・というものについて・・・
記録性と芸術性。すべての写真表現は、この二つの間を振幅しているといっていい。
この・・二つの間・・とは、先日“山形県写真展”で私が感じた記録性と芸術性、つまり、リアリズム系の写真家として双璧をなした「木村伊兵衛」と「土門拳」との間・・と言い換えることも出来るかもしれない。濱谷浩の作品は、写真ジャーナリズムやドキュメンタリー写真といった言葉で語られるように、時代を刻印する記録性を強く備えているのだ・・ともいう。
記者“大西若人”氏は続けて・・・
・・だから、富山県の泥沼同然の田んぼに胸までつかって田植えする過酷さを記録するなら、女性の顔までとらえる方法もあっただろう。苦痛にゆがむ表情や疲れ果てた顔が撮れたかもかもしれない。
そうしなかったのは、喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねないからだろうか。
つまり、あえて顔を写さないことによって、この黒光りする体そのものの造型から、観る者へ言葉よりも強い“もの”が伝わってくる。“大西若人”氏は、それは芸術としか呼びようがない・・・と言い切っているのだ。
私は昨年、この写真から感じるものに似た幾つかの体験をしていた。それは、あえて瞳を入れなかった「モジリアーニ」の数々の人物画。(右)
それに、あえて人物のいない部屋や、人物の表情が見えない後姿を描くデンマークを代表する画家“ヴィルヘルム・ハンマースホイ”(左)。人が居ようが居まいが静かにあり続けるその空間・表情が見えないからこそ観るものの“こころ”が動く。つまり、安手の物語に組み込まれない奥行きの深さと、そして、目に見えない大事なものがゆっくりと強く伝わってくる。あえて撮らないから・・こそ、あえて描かないからこそ、より深く伝わる“もの”がある・・と。
まさに「・・・意味が完結しかねないから・・」・あえて顔を写さなかった“濱谷浩”の、「田植女」と題されたこの一枚は、報道写真や記録写真とは違う芸術写真なのだと言う “大西若人”氏のこの解説に、私は強く引き込まれた。