“竹久夢二” が愛した・・三人の女性 |
待てど 暮らせど 来ぬ人を
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな
暮れて河原に星一つ
宵待草の 花の露
更けては風も 泣くそうな
作詞:竹久夢二 補作:西条八十 作曲:多 正亮
数多くの叙情的な美人画を残し、その作品は「夢二式美人」と呼ばれるほどに、大正浪漫を代表する画家となった「竹久夢二」。(絵や写真は全て図録より。)
彼は約180篇の詩を残し、そして約430首の短歌に表現したほか、更に150あまりの小唄などを作っている。ちょっと年配の方なら誰しもが知るこの、何ともやるせない唄・・『宵待草』・・は、後に「多 正亮」によって曲が付けられ、大正末期に大流行する唄となったのだった。補作・・とあるのは、歌にするにあたって一番だけのこの詞が短すぎるという理由で、「西条八十」が、「暮れて河原に・・・」というこの2番を付け加えたのだという。
私は先日、人間 “星野富弘”氏と、建築 「富弘美術館」に出会うために、群馬県は“みどり市”に車を走らせたのだが、途中日光を回り、「日光 竹久夢二美術館」に立ち寄ることにした。農家から旅館に嫁ぎ、女将として生きた一人の女性が、夢二の一枚の絵に出合って人生が大きく変わったという、ある旅館の女将のコレクションを一同に介したのがこの美術館なのだ。その、夢二に惚れに惚れぬいた・・のだろう、たくさんの夢二の絵を見詰めながら、私に伝わる、悲しくもあり、切なくもあり、やるせなくもある美しい女性!。館長をも勤めるこの女性が、夢二の絵に大きく“こころ”動かされた・・・というそのわけが、男である私にも解るような気がした。
「竹久夢二」と言えば、生涯こよなく愛した三人の女性を、語らずにはいられない。
夢二が最初に愛したのが「岸たまき」。
彼女が自立の為に、早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、彼女に惚れてしまった夢二が客として毎日通いつめ、その挙句、2ヵ月後には結婚にいたったという。だが、2年後に離婚、その翌年に再び同棲、そしてその後別居を繰り返す。「岸たまき」と画学生:後の「東郷青児」との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎え・・そして絶縁にいたるという。“たまき”は“夢二”亡き後も終生彼を慕い続けた・・ともいわれるようだ。(左の絵とたまきとは無関係。)
そんな時出会ったのが二番目の女性「笠井 彦乃」。
女子美術学校の学生であった彼女は、夢二のファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際が始まる。たまきと別れ、京都に移り住んだ夢二としばらく同棲するが、大正7年(1918年)九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病し、父の手によって東京に連れ戻される。夢二はその後も、彼女との面会を遮断される。御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、そのまま短い人生を終えてしまう。夢二は、彼女の死後、しばらくショックから立ち直れなかったといい、彼は生涯この女性「笠井彦乃」を、最も愛した女性だ・・と語ったという。
そして「お葉」
彼女が上京後、東京美術学校のモデルとして人気があった女性だった。藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲、渋谷(現在の渋谷ビーム、同地に石碑あり)に、二人所帯をもつ。
大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んだという。一児をもうけるが夭折にいたり、翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する。後に、彼女は医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごしたという。最も有名になったこの絵画作品である『黒船屋』は、このお葉をモデルとしたのだそうだ。(左)
「・・ありがとう」・・という言葉を最後に永眠した享年51歳の「竹下夢二」。その、短い生涯でありながらも恋多き夢二ではあったが、ある日、実ることなく終わった“ひと夏の恋”によって、冒頭の「宵待草」の詩は創られたという。この待宵草は、「月見草」などと同種で、群生して咲く可憐な花で、夕刻に開花して夜の間咲き続け、そして翌朝には萎んでしまうという。・・・夢二の“ひと夏の恋”は、まるでこの花のはかなさのようだ。待宵草のこの短い言葉だが、ある悲しい一夜の恋を充分に伝える力がある。
そうした、女性との生活の中から、美しくも妖艶なその姿を彼独特の表現で絵や詞にすることが出来たたのかも知れない。(下は、悲しくも妖艶な女性の美しさをかもし出す大正6年作:『蘭燈』)