8月13日・・・“迎え火” |
千歳山の山頂を目指そうとするも、突然の大雨に二度も邪魔され断念していたのだが、暑さもようやく和らぎ、ほど良く心地よい風が吹く昨日、私は、8日ぶりに山頂を目指した。前日までのうだるような暑さとはうって変わって、千歳山の懐も、葉と葉の間から吹き込む香りよい風のお陰で、昼近い時間でも、まるで春先のような気持ちよさだ。でも、足元を眺めれば、前日の台風4号の雨で、深くえぐられた登山道が痛々しい。お盆休みに突入した昨日は、子供たちと一緒に登山を楽しむ家族が多く、そんな元気な子供たちとたくさん挨拶を交わした。
たった一週間ぶりだというのに、千歳山の風景に何故か懐かしさを感じ、ジージーと、終始私の頭上に聞こえる蝉の鳴き声も、何故か新鮮に感じる。それに、先日会得した“演歌登山法”のお陰か、体は何時もよりも軽く感じ快調である。ほど良く滲む汗も風に冷え、とても気持ちが良い。山頂の展望台では、二つの家族がお弁当を開き、とても楽しそうだ。休暇となったのだろうか、盆の13日も、車で渋滞に巻き込まれずに、家族でこんな風に過ごす方法もあるようだ。
昨日は、「迎え火」と呼ぶ8月13日。そして16日は、一つ一つの灯りがゆらゆら揺れながら静かにゆっくりと流れていく、ちょっと物悲しい灯籠流しの「送り火」。この、「迎え火」・「送り火」という、先祖供養のなんと美しい“行為”だろうか。そして・・・・
私のお墓の前で 泣かないで下さい
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
これは、透明感に溢れ艶のある美しい声で歌い上げる、あのテノール歌手「秋川雅史」氏の「千の風になって」である。誰しもが、何れはこの世を去らなければならないなら、私は、暗くジメジメしたお墓の下ではなく、やはり”千の風”になって大空を吹きわたっていたいものである。
それに、亡くなった人の遺骨をどう供養すればいいのかは、生前の本人の意思は勿論だが、遺骨をお墓に埋葬する・・ということだけではないようだ。近年では、“手元供養”と称し、遺骨の中の炭素からダイヤモンドを精製し、ネックレスにして供養する方法や、海や山に散骨して“いのち”を自然に帰すという供養も広がりつつあると聞く。
「・・・そこに私は・・眠ってなんかいません」ならば、やはり、“お墓”とは、むしろ残されてしまった者の、悲しくむなしい“こころ”を、何時までも、そっと収めてくれるために存在するのかも知れない。
私も昨日、そんなお墓の前に立ち線香を上げ、手を合わせながら、又四年前他界した親父の姿を思い出していた。そして、このお墓・・にではなく、今日千歳山山頂で感じた、とても心地よい壮大で雄大な”千の風”になって、天から見渡していてほしいものだと。