人間・・“鈴木 実”・・という彫刻家 |
「鈴木実・彫刻作品集」の中で、私は、美術史家「千田敬一」氏が語る・『鈴木実論—負から生を見る』・という文章の中の、この数行を読んで、まるでその光景を見たかのように感動していた。
(画像は全て作品集より。)
先日、何気なしに訪れた「米沢市上杉博物館」で出会った、山形県は高畠町生まれの彫刻家「鈴木実」氏の二点の彫刻を目の当りにし、私は強く心を引き込まれた。
一点は、1959年、彼が29歳の時の、『人』と題された作品(左)。彫刻の世界はまだ具象から離れられない時代、彼自身も、このころから抽象へと向かったようだ。この、人が二体に見える彫刻には、顔や手や足首が無い。その一体は、まるで地面にもぐりこんでいるかのようだ。それに、お互いに溶けあっているようにも見える。精神や心の無い、肉体そのもののこの彫刻は、まるで古代から変らぬ普遍的な”人間”の原型のようにも見えてくる。そして、逞しくも、・・悲しくも、・・切なくも見えた。
この作品は、「第44回・日本美術院展覧会」にて、奨励賞(白寿賞)を獲得している。
作品集に載った、彼の数々の作品には、『人』と題された作品とは逆に、肉体が無く、顔と手だけで表現された作品もたくさんある。左は、1998年、68歳の時の『私自身の肖像』という作品。硬く暗い上を向く顔面は、もがいても抜けられない苦しい表情に見え、箱から飛び出した片方の手は、何かを掴もうとしてつかめないいらだを感じさせる。
それは、時としておどろおどろしさや嫌悪感さえ感じるのは、見た目の美しさを求めない彼のその表現と、見る者自身との間にある、目には見えない”溝”が、直ぐに埋められないからなのだろう。
でもそれは、見える”もの”のその”カタチ”ではなく、その”カタチ”の裏に感じる”もの”を表現しようとしたその作品からは、何故かは解らずしも、ドキッ・・とするほどに”こころ”に響くのである。
「人間とは何か!」・・・という疑問を解きたいと願いながら、彫刻を彫り上げていたという、彫刻家「鈴木実」。そのおどろおどろしい数々の作品は、彼自身が人間であるがゆえに、永久に問い続けなければならない、もがき苦しむ人間・「鈴木実」そのものの”こころ”の姿なのではないのかと。
そして、8年前の2002年、衝撃が走った。何と、72歳の彼は、自身のアトリエにて縊死してしまったのである。「人間とは何か!」・・・という疑問を解き明かそうとしながら、何故彼は自ら”人間”を捨ててしまったのか。(左:鈴木実)
作品集の中で、「千田敬一」氏はさらに・・・
鈴木は「美術関係者に、よく存在感が・・・というような哲学的なことを言われるが、今の私は哲学的に物を考えて作れない。何か満たされないという欠落感が、常に自分をつき動かしてきたと思う。」と語ってくれたという。
日常普遍的な、「生」・「性」・「情」・「死」と言った、「人間とは何か!」・・・を、彫刻を通し、私たちに投げかけ続けた彫刻家「鈴木実」。何故彼は、縊死してしまったのかは、私には解るはずもないが、もしかすれば、「満たされないという欠落感が、常に自分をつき動かしてきた」という彼は、”人間”の・・”何か”・・について、決定的なそのある一面に、”気が付いてしまった”・・・のかも知れない。