街中をピンク色に染めていた美しい桜は、ゴールデンウィークに入ってあっと言う間に葉桜となってしまった。それでもまだ、今満開を迎えていることだろう西蔵王の「大山桜」など、まだまだ桜を楽しむことは出きる。私は昨日、そんな「大山桜」とは別に、既に散り始めているという、樹齢1200年と言われる長井市は伊佐沢の「久保桜」を眺めていた(下)。
だが、よく見れば私の記憶にある「久保桜」とはちょっと様子が違って見えた。あの空洞となっていた太い根元には、まるで傷口をかばう包帯のようにぐるぐる巻きにされ、天に伸びて桜を咲かせていた幾つかの枝が、無残にも切り落とされているのである。そのためか、無数の花びらを抱えながら力強く天に聳える、あの凛々しさと優美さはそこにはなかった。むしろ私には、老いて姿を変えながら“死”に向う“哀れさ”さえ感じさせた。
私は、近くに掲示されたその説明を夢中で読んだ。
動物に限らず植物やこの「久保桜」など、“生きとし生けるもの”には自らを病気から脱出させる「自己治癒力」なるものが備わっているのだと言う。だが、病気を抱え老木となったこの「久保桜」には、自ら治そうとするその「治癒力」がなくなり、よって、枯れてしまわないように人間の知恵と技術が施されているのだと言う。
(下は、三年前の優美さを見せる「久保桜」。過去のブログ
「散りゆく桜・・・“滅びの美”」もどうぞ。)
そりゃぁ~・・1.200年も生きていれば何時かはそんな時が訪れるのは不思議なことではない。だがその施しは、人間の、老木となった「久保桜」への“哀れみ”・・なのか、それとも、あの優美な姿を失ってももっともっと「久保桜」を見続けたい・・という人間の思いなのか。どちらにしても、この処置は、それが良かれと思ってのことなのだろう。だが、勿論「久保桜」自身の選択ではない。
延命処置を選択出きる死期を迎えた人間のように、この延命処置を受け入れるのか否か・・?
私は昨日、ほとんどの枝を人間が作った無数の”杖”に支えられているこの目の前の「久保桜」自信に、是非聞いてみたい・・と思った。
帰りに、白鷹の「あゆ茶屋」に立ち寄り、最上川上流に向かって生き生きと大空をたなびく無数の鯉のぼりを見た。眼下の「鮎の簗場」は、雨で増水した水の下に埋もれ、入り口で「立ち入り禁止」となっていた。