「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」 |
私は40年近い勤め人生活で、家庭をつくり、住宅ローンを払い、いつの間にか年老いた。
・・・・・ついぞ仕事にも、恋愛にも、友人とのつきあいにも
自分を賭けるほどのめりこむことのないまま老境を迎え現在に至っている。
いやむしろ、私はこれまでの人生を、常にリスクを避け
逃げ道を用意して過ごしてきたといったほうが正確だろう。
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“佐藤久一”を追いかけることで、自分の人生の意味をもう一度
捉えなおすことができるのではないかと考え始めたのだ。
久一がもし偽者だったら、お互いに傷を舐めあい泣くことにしよう。
だが、もし久一が本物だったら、私は自分に残された人生を
彼の生き方を手本にして歩んでいくことができるかもしれない。
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「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」
というこの長い題名の本の著者:岡田芳郎が、この本のエピローグで語っていた言葉だ。
彼が“佐藤久一”という人間を知ることによって、それまでの自分の生き方と
その先の人生まで捉えなおそうとしていた。
そして彼は、度重なる取材を重ねこの一冊の本を完成させた。
映画館・フランス料理店・そして恋愛と、リスクを恐れず自分のやりたいことに
常に正直に生き抜いた“佐藤久一”の生きざまと、そして息絶えていく彼の姿の虚しさを感じ
私は、この本を読み終えたときに、著者と同じように、これまでの私の生き方と重ね合わせていた。
佐藤久一
1930年1月 山形県酒田市に生まれる。
50~64年、映画館「グリーンハウス」支配人。
64年4月、日生劇場勤務のため状況し
同劇場劇場課、食堂課で働く。
67年8月、酒田市議会議長を務める父
久吉に乞われて酒田に戻り
以後、「レストラン欅」
「ル・ポットフー(清水屋)」
「ル・ポットフー(東急イン)」の支配人を務める。
97年1月、食堂がんにより没する。享年67歳。
今年の1月18日に発売された瞬間から、県内週間ベストセラーに名を連ねた、評判の一冊なのだが、なかなか手に入らないというこの本を、私は・・なんと幸運にも・・・・お客様からプレゼントしていただいたのだ。昨日からの、酒田二泊三日の建築現場監理旅行の合間に、人間“佐藤久一”の魅力に取り付かれ一気に読み終えた。
左は、先日の朝日新聞に掲載された県内の週間ベストセラー。
この本は3位にランクイン。
1976年10月29日、漏電により酒田大火の火元となってしまったあの映画館「グリーン・ハウス」や、日本一のフランス料理店と言わしめた「ル・ポットフー」を作った男“佐藤久一”の、映画や料理に共通した“もてなし”における凄まじいまでの探究心は、彼の生き方そのものだった。
そんな彼を取り巻く深い友情や恋愛など、情熱溢れる彼の心に触れたその人間関係を通し、強さや深さや美しさといった“ひと”の魅力を、この本は最後まで語りかけてくる。
(右は、この本に掲載されている、まさしく映画館「グリーン・ハウス」が燃え上がる当時の写真。以後写真は全てこの本に掲載されているもの。)
思えば、1976年の酒田大火のあったこの年は、私はまだ20代で山形県庁建築課の職員だった。
その大火の状況を視察するため、出火から一週間目に仕事で上司と一緒にこの焼け跡を訪れている。
そのきな臭いにおいの残る・・まさしく焼け野原を体感したのだった。
その火元となったのが“佐藤久一”がつくった映画館「グリーン・ハウス」だったのだ。
そこで上映された映画は勿論、その客席の椅子の構造や、音響や画面の美しさにおいて、酒田市民だけではなく、あの映画評論家「淀川長冶」や「荻昌弘」も魅了され、繰り返し足を運んでいたと言うほど、全国にその名が知れ渡っていた。
ある時、建築家村野藤吾設計の豪華で華麗な美しさを持つ「日生劇場」に触発された久一は、チャンスや偶然が重なり、今度はフランス料理における“もてなし”を探求するに至るのだった。
その素材の味は勿論、内装の雰囲気や音楽などへの又もや異常なまでのこだわりが、世界の料理を知り、“食通”と言われたあの作家「開高健」までも唸らせ「グリーン・ハウス」という名映画館に続いて、今度はまさしく日本一のフランス料理店「ル・ポットフー」を成功させるのだった。
彼の父親は、明治から続く造り酒屋「初孫」の二代目久吉であり、
そのお酒も、時々メニューに登場していたようだ。
(左上は、当時の「グリーン・ハウス」。下は、当時とても女性にもてたという若かりしころの
“佐藤久一”)
私が今思うのは、人間“佐藤久一”である限り、映画やフランス料理にとどまらず
例えばどんな職種においても、「どうしたら、喜んでもらえるのか」 といった
その“もてなし”における“こだわり”やその生き方は、きっと変わらなかったのではないだろうか・・と。
そして、もう一度“佐藤久一”を振り返るとき
凄まじい努力によって、彼が探求し追い求め到達したものは、“ひと”に対する「限りない優しさ」
だったのではないだろうか・・・。
私は今、改めてそう感じている。
仕事で通いつめているうちに、酒田に取り付かれてしまった私は、この本によって
又新たに、酒田の文化の魅力溢れる奥深さを味わったような思いがした。
“佐藤久一”が蒔いた種は、今も東急イン三階の「ル・ポットフー」や、産業会館の「レストラン欅」
によって、今もしっかりと芽吹き、すくすくと育っているという。
エピローグの最後に、酒田にある“佐藤久一”の墓の前に立った著者:岡田芳郎は
こう締めくくった。
・・・私は墓前にぬかずき、“佐藤久一”に挨拶した。
「久ちゃん、どうやら私の中にあなたが住み着き始めた。」