画家 “後藤栖子さんを偲ぶ会” |
病みぬいて 鎮守の杜の 木の実降る
26歳で乳癌の告知を受け、その後66歳までの40年間手術・再発を繰り返し、今年の1月2日その生涯を閉じた 画家:後藤栖子。
俳句も好きだったという彼女が読んだこの句から、まさしく“病みぬいた”壮絶な生きざまと、“生きている”ということの意味とその豊かさが伝わってくる。
本人の希望により、葬儀は行われず、そして彼女のその“病みぬいた”体は「山形大学病院」に献体として提供された。
山形の街を一望出来るところにすでに墓地を購入していたというが、一年後に「山形大学病院」から、彼女はようやくその墓地に遺骨となって帰ってくるのだという。
画家「後藤栖子」氏は、小説「少年の橋」で芥川賞作家となった日本画家:故「後藤紀一」の
娘でもあり、南に「千歳山」を望む、私と同じマンション6階に「アトリエ千歳山」と3階に自宅を構え、最期まで製作活動を続けていた。
何時のことだったか、共通の友人を通して彼女のそのアトリエでお酒を酌み交わしたこともあった。
マンションのロビーでお会いすると、何時も笑顔で明るく挨拶を交わしてくれた。
葬儀が行われなかったために「彼女とのけじめがつけられない!」という友人知人より、
当初、「・・・お別れの会」が企画されたのだが、「分かれたくなどない!」という強い要望によって・・
結果「後藤栖子さんを偲ぶ会」という名前になり、先日山形市内にて駆けつけた200人を超える
人達によってとり行われた。
彼女の筆のタッチと確立したその画法やスタイルに改めて魅了された。
彼女をよく知る友人や知人たちのスピーチによって、生前の彼女の凄まじくも穏やかな
“生き方”が次々に披露された。
共通した感想は、病に対する無念さや悔しさや辛さは一言も聞いたことが無いという・・・
「癌」との戦いを内に秘め、一日一日の日々を、しっかりとそして淡々と生き抜いた人間「後藤栖子」。
突き抜けたその“平常心”からは、目に見えない“ひと”としての強さと豊かさが伝わってくる。
私は、病に侵された時の、病気と自分との向き合い方を教わった気がした。
口ぐせは 太く短く ビール干す。
バツイチと 言われる暮らし 梅を干す。
月山の 晴れて画室の 初仕事。
背もたせて 岩のぬくもり 山笑う。
村の児に 教わるつくしの 玉子とじ。
亡き父の パイプを磨く 十三夜。
・・・・
後藤栖子
何時のことだったか、マンションのロビーでのなにげない会話に
「・・・なるべく死なないようにしないと・・ね・・・。」
といった彼女の言葉が忘れられない。