“柏倉九左エ門家” |
今年の一月のある日、何故かこの“柏倉九左エ門家”が又見たくなり訪ねてみるも
冬季間は、クローズされていて門から中に入れなかった。
しばし忘れていた先日、“柏倉九左エ門家”代々から引き継がれた「ひな祭り展」が
開かれていることを知り、今度こそはと・・早速出かけた。
東村山郡中山町にあるこの“柏倉九左エ門家”に魅せられたのは、昭和55年
山形県指定有形文化財に指定されることを受け、その調査によってまとめられた
詳細にわたる図面、特に断面図や、まるで写真のようなこの姿図を眼にしたときからだった。
先日、柏倉家でいただいたチラシに、当時目にした・・まさにその図面が載っていた。
この姿図は、樹木の一枚一枚の葉や、大きく跳ねだした軒先が作る“陰”までも
精密に表現されていた。
若かった私は、近代建築に眼を奪われていたそんなときに、その図面から伝わる
雪国特有の骨太な感じと、巨大な萱葺き屋根に覆われたフォルムの美しさに衝撃を受けた。
図面は全て鉛筆で描いていた当時、私もそれに負けじと製図版に噛り付き
鉛筆で一本一本の線を、絵を描くような思いで図面を書いていたことも思い出す。
そしてその後、この“柏倉九左エ門家”を何度訪れたことだろうか。
何時のことだったか、私か訪れたとき“柏倉家”にお嫁に来たのだという女性に案内していただいた。
そのとき私は、文化財に指定されながら、お蔵の屋根に無造作に青いシートがかぶせてあったので
「どうしたのですが・・?」と聞くと、彼女は「屋根が雨漏りしていて、修理したいけどその工事に掛かるお金が無いのだ・・。」と話していた。
観れば、銅版で作られた雨どいや、莫大な金額が掛かるだろう茅葺屋根の修理など
文化財の家屋で生活を続けながらのその管理は、そう簡単ではないこともその時知った。
隙間風の入る木製の戸を勝手にアルミサッシに変えたりも出来ないといった
往々にして、文化財に指定されても、そんな不自由な面が多く
何よりも、県から支給される僅かの管理費だけではその修理代などもの費用はまかなえないという。
一人500円という入場料で、なんとか守り続けているのだということも・・・・その時知った。
久しぶりに訪れた先日、平日でありながら「ひな祭り展」とあってか、思いのほか訪れる人が多かった。
そして、懐かしくもその日又説明していただいたのが、あの“柏倉家”にお嫁に来た、今は松葉杖をつくおばあちゃんだった。
(左写真は、今はあまり見られなくなった石垣張りという手すきの障子紙。)
(まるで寺院のような仏間。)
この”柏倉家”は、江戸時代山形城下の大庄屋を勤めた「柏倉九左エ門家」の住宅で、仏間門前の松は樹齢500年、主屋西南にある池を伴った「築山庭園」は、小堀遠州流といわれ、別名「鶴亀の庭」とも呼ばれている。
江戸時代中期、当時としては高貴な芸事とされていた「お香」をたしなんだ組香の記録や、当時の香木、香道具、お香の教本類が残っていて、香の文化は遠く山形の地でも花開いたようだ。