『生誕100年記念 桜井浜江 展』 |
この逞しい松の樹、そしてその太い幹!ねじれながらも生き抜くその“いのち”の深さまで伝わってくる。
そして、この絵の具の質感や色づかいや圧倒的なこの構図!・・・大らかだか激しいこの絵は、観る者に“なにか”が圧倒的なパワーで迫ってくる。
これは、山形市出身の洋画家:「桜井浜江」(1908-2007)の晩年の作品である。
私は、「山形美術館」の『生誕100年記念 桜井浜江 展』で、エネルギー溢れる
数々の彼女の作品に触れ、「いったい“絵画”とは・・何なのだろう・・・・!」と
もう一度その原点に立ち戻される思いで絵を見つめたのは、初めてのことかもしれない。
彼女は、18歳の時家出同然で上京、当初から仲間の女流画家の中でも彼女の絵は
理解の外にあったというから、ある意味では突き抜けていたとも言えるのかもしれない。
彼女は絵と向き合うも・・・・すぐに、「構図がしっかりしていないと、勢いが勢いにならず
勢いが熱気になりきらない。」と、「絵はまず構図が大事なのだ!」という事にひたすら拘ったという。
それに、彼女は“写生”というものを全くしなかったようだ。
静物やモデルを置いて描く場合でも、極端に単純化して描くものだから、対象とは
似ても似つかぬものとなったという。
それは、後に「壷シリーズ」や「樹シリーズ」を描き続けている時も全く揺らぐ事はなかった。
彼女は又、絵は平面であるべきだと考えていたようで、奥行きを無視し
そして特に距離感が出るのを嫌ったという。
世界の画家の中でも「シャガール」や「モジリアニ」や「キュビズ」に影響されたと知って
なるほど!・・・と、私は、その奥行きと距離感というものを表現手段としなかったことが
彼女の数々の絵を観ながらどこか納得できたような気がした。
そして、彼女の戦前期の代表作となったのがこの「雪国の少年」という絵だった。
小説家を目指した「秋沢三郎」と結婚したことで、「太宰治」の小説「饗応夫人」は、彼女がモデルだったというほどに、「太宰治」とも深い交流があったようだ。そんな環境からか文学にも傾倒するが、夫に対して「彼は、皇室に仕えている家柄で、窮屈で我慢できなかった。」、後にそう語った彼女は、その夫と離婚に至るある日、あるガード下で夫に・・「あんたはそっち、あたしはこっち、じゃあ~ね」と、あっさり別れたのだというから、それが本当であれば、その大らかさもかなり弾けていたのかもしれない。
又ある日、路上に物乞いする浮浪者に出会ったある時、「・・可愛そうだ」と、自分の財布ごとそのまま置いて去ったというから、いろいろな意味で気前の良いことでも突き抜けていたようだ。
それに確かなことは、まぎれもない芸術至上主義の信念の持ち主だったということだ。
その後彼女は、徐々にあの「ルオー」にも似た輪郭線を消した人物を描くようになる。
(左は、1947年『人物』 :桜井浜江)
「安易な叙情というようなものを、出来るだけ画面からふき取りました。」
「画面をしめ、画をもっと大きなもの、広いもの、高いもの、深いもの、心の底よりもり上がるもの
地の底から湧き上がる力、そんなものにしようと心がけました。」
美術手帳1956年、12月号での彼女が語ったこの言葉が
私は、絵と向き合うときの彼女のその“こころ”が、少しだけ垣間見えたような気がした。
戦後、モダニズムといった時代の流れに流される画家が多い中でも
彼女のキャンバスに向き合うそんな姿勢は、揺るがず生涯変わらなかったという。
そして、絵を教えるささやかな収入で生活を続け、決してお金にするために絵は描かなかった・・
ともいう。
何故彼女は、真摯な・・深刻な・・不吉な・・恐ろしい?・・・絵画を描き続けたのか?・・・・
と思うとき、それはおそらく、彼女がキャンバスの奥に見つめていたものは
モデルとなった対象や「壷」や「樹」ではなく、もしかしたら自分の奥深いところにある
彼女自身が追い求めた“こころ”だったのかも知れない。
そんな彼女を、「燃え上がる魂の画家」と図録の解説の中で表現されていたのも読んだ。
「未完ゆえに、成熟を求めなかった彼女に相応しい。」というある解説もあった。
(1933年、23歳の桜井浜江)
キャンバスに、この幾重にも塗り重ね、削り取り・・そしてまた自分自身と格闘するように、ペインティングナイフで何度も塗りこまれた・・
だからこそ・・・その質感から伝わる人間「桜井浜江」。
私は、私の想像を遥かに超える彼女の“激しさ”を感じながら
この絵は、「・・・もっと大きなもの、広いもの、高いもの、深いもの・・・」を生涯求め続け
そして激しく生き抜いた彼女の・・まさに“カタチ”に残った痕跡のように思えた。