フランスの画家 “ジョルジュ・ルオー” |
1871年、パリに指物(さしもの)職人の子として生まれたルオーは、装飾美術学校の夜学に通ったり、19歳の時には本格的に画家を志し、国立美術学校などでも修行を重ねていたようだ。そこで、彼は将来の、自分の作品に関わる運命的な出会いを果す。それは、同校であの「マティス」の指導にもあたっていた象徴派の巨匠、「ギュスターヴ・モロー」だった。
教師としてのモローは、、自分自身とは全く資質の異なる「マティス」とこの「ルオー」といった、2人の巨匠の個性と才能をに気づき、それを巧みに引き出しえたのだった。それは、モローは決して自己の作風や主義をこの二人に押し付けることはなかった・・ということに他ならない。その後ルオーは、終生師“モロー”への敬愛の念が熱く、1903年にはモローの旧居を開放したモロー美術館の初代館長となったのだという。
ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった。30歳代になり、20世紀に入ったころからあの黒く骨太に描かれた輪郭線と、色も鮮やかな透明感のある色彩が生まれてくるのだが、それは、「ルオー」が14歳の時、ステンドグラス職人に弟子入りしたことによって、ステンドグラス特有のガラスの透明感と、ガラスとガラスの間の黒く力強い輪郭線そのものだった。(下:「秋」)
ルオーはヴォラールという画商と契約をしていた。そのヴォラールに「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、世に出さず、焼却する」と言い出した。ヴォラール側は「未完成作品も含めて自分の所有である」と主張したが、「未完成作の所有権は画家にある」とするルオーの主張が1947年に認められ、ルオーはヴォラールのもとから300点以上の未完成だという作品を取り戻し、それを何とボイラーの中に放り込んで、焼却してしまったのだという。
それはいったいどんな絵だったのだろうかと、興味が広がるが、それにしても300枚とはなんとももったいない話だ。・・・でも、ルオーが“完成品だ”と認めたものだけが世に出たのだとすれば、・・・だからこそ高い評価を得ているのかもしれない。右:ルオーの晩年に描かれた「マドレーヌ」だが、同じ晩年のピカソの作品のように、全ての苦悩から、解き放たれたような大らかさを感じる。