“レオナール・フジタ”・・『乳白色の肌』の秘密! |
私の知る「藤田嗣治」の、あの一連の『乳白色の肌』の女性像とは全く異なる「花を持つ少女」という一枚の絵。このひずんだ顔のその卵型のゆるい曲線からは、女性らしい優しさは伝わるが、その遠くを見すえている黒い瞳からは、呆然とした閉じた“こころ”の硬さが伝わる。花を持つ左手は、まるで花を怖がってでもいるように、そして今にも落としてしまいそうな、とてもか弱いその手と指。そして、薄く青い服の下には肉体が透けて見え、意外にしっかり描かれた僅かな腕の筋肉や腰のライン。そして、乳房に乳首までもが表現されている。
この絵が描かれたのは、「藤田嗣治」がパリに渡って四年目の、31歳となった1917年。まだ貧しい生活の中、カフェで出会ったフランス人モデルの「フェルナンド・バレエ」と二度目の結婚をした・・その次の年に当たり、彼の絵が、ようやく認められはじめ、売れ始めた、まさにそのころの一枚だった。そしてこの年は、第一次世界大戦が終戦を迎えた年でもある。この不思議な構図や全体から伝わる雰囲気が、私は、何故か「モディリアーニ」の、あの瞳の無い一連の絵に似てはいないか・・と思った。
当時、彼が住むのモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで、芸術家、特に画家が多く住んでいたといい、藤田の部屋の隣に住んでいたのが、まさに「アメデオ・モディリアーニ」であり、彼は「親友」と呼んでいたということを、私は後になって知った。この二年後に病死することになる「モディリアーニ」は、すでに自分の手法を獲得していたこの時期、もがき苦しむ「藤田嗣治」は、知らず知らずのうちに「モディリアーニ」に、どこかで大きな影響を受けていたのかもしれない。このころ、「モディリアーニ」などを通して、「パブロ・ピカソ」や、「アンリ・ルソー」らとも交友があったという。そんなパリでは、既に“キュビズム”や“シュールレアリズム”など、新しい20世紀の絵画が登場していて、日本で「黒田清輝」流の“印象派”の絵こそが洋画だと教えられてきた「藤田嗣治」は、大きな衝撃を受けたという。
「私の体は日本で成長し、私の絵はフランスで成長した。」と、自らが明言するように、“パリの寵児”と呼ばれるまでの苦悩は、もしかすると、この「花を持つ少女」の姿に、彼自身が重なっているのかも知れない。
藤田は、生前、絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかったという。だが、彼は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1対3の割合で混ぜた絵具を使っていたといい、その炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びるのだという。これが、彼の『乳白色の肌』の絵の秘密だったのだと、近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされたという。
1959年、「藤田嗣治」はカトリックの洗礼を受けて“レオナール・フジタ”となった。