「弘前城」・・仰天したのは壊された、「本丸御殿」 |
つまり、1873年(明治6年)、明治政府から大蔵省に発せられた、陸軍が軍用として使用する城郭陣屋(存城処分)と、大蔵省に引渡し売却用財産として処分する城郭陣屋(廃城処分)に区分されたのである。それは、陸軍が軍用として使用する、その機能性のみの判断であり、「城」そのものの「建築」としての価値や、「文化財」としての価値は無視されたのだった。
先日訪れた、青森県の「弘前城」。津軽家2代藩主信枚の手によ、慶長16年(1611年)に弘前城は完成したが、しかし、完成から僅か20年に満たない寛永4年(1627年)に落雷で炎上、内部の火薬に引火して大爆発を起こし焼失したのだという。現在の天守は、その代用として文化7年(1810年)から「本丸辰巳櫓」を改修し、文化8年(1811年)に完成した層塔型3重3階の建物である。
もし、・・もしも現存していたならば、勿論、弘前の最大の観光スポットとなったことだろう。
いやはや、この弘前城御殿に限らず、いくら歴史の流れとは言え、全国に存在していた、さぞや美しかったであろうたくさんの「城」を失ったことは、返す返すも残念である。
「本丸御殿」は、築城当初から造られ、「表座敷」・「政務の場」・「台所」・「能舞台」などから構成され、増改築を繰り返しながら、歴代藩主の政務の場と住居としての役割を果してきたのだと言う。国の重要文化財に指定されている天守は、司馬遼太郎の『街道をゆく - 北のまほろば』で、「日本七名城の一つ」と紹介しているという。
間もなく、「弘前城築城400年祭」を迎えるというが、どんな祭りになるのだろうか?・・楽しみである。