『ノーマン・ロックウェル』 展 |
20世紀半ば過ぎまで、アメリカ南部では長い間人種隔離政策が取られていた。それは、学校教育においても同様だった。しかし、1954年の「ブラウン判決」によって、公立学校における人種隔離が憲法違反であると判定し、白人と黒人の共学が進められるようになったのだった。その後、この「ブラウン判決」がきっかけとなって黒人たちによる平等を求める声が高まることになる。・・・が、実際にはスムーズには行かず、黒人が学校に入ろうとすると、白人による激しい抵抗があったという。そんな状景を写し撮ったのだろうか、これは一枚の写真・・・・のようではあるが、これは写真ではなく、「ノーマン・ロックウェル」という、アメリカの天才画家が描いた、《アメリカ国民の宿題》という一枚の絵なのである。
彼の絵の、何という描写力なのだろうか・・・!、それに見事な質感に、驚異的な写実力!。まるで一瞬を捉えた一枚の写真のようである。その、完成されたデッサン力からは、まるで、あの「フェルメール」や「ベラスケス」をも思わせるが、彼の決定的に違うのは、「ノーマン・ロックウェル」が生きだ時代には、写真・・という技術が登場するのである。
彼は、ニューヨークで生まれ、美術学校を出てから、アメリカ・ボーイスカウト協会の雑誌などに絵を書き始める。(ボーイスカウト運動に対して多大な貢献を果たしたことに対して、後に、世界で十数人しか与えられていない功労賞「シルバー・バッファロー章」が贈られている。)写真のような数々の彼の絵は、1916年から1963年にかけて『サタデー・イーブニング・ポスト』紙の表紙を飾ったものが多い。その中でも、とりわけ1940年代から1950年代のものが人気があるのだという。・・・がゆえにか、彼の絵は商業主義的で一部の近代美術批評家からは、まじめな画家として扱われず、イラストレーターと呼ばれることもあったようだ。でも、雑誌の表紙とは言え、アメリカの市民生活の哀歓を巧みに描き、アメリカ人の心を捉えている彼は、最もアメリカ的な画家の一人として名高いのである。
彼は多作であり、生涯に2000を超える作品を描いたというが、1943年に彼のスタジオで起きた火事でその多くの作品が焼失し、残った作品もほとんどが美術館の恒久的所蔵品となっているという。彼に作品を依頼し、表紙などに使った雑誌で、完全な状態で残っているものは極めて少ないため、発見されると数千ドルの値が付くのだそうだ。
『サタデー・イーブニング・ポスト』紙の表紙制作を1963年にやめることになるが、彼のその後の絵は、冒頭の、1973年、《アメリカ国民の宿題》という絵のように、政治的・社会的な題材が多くなる。つまり、エンターテイメントからジューナリズム的ものに移行していくのである。
もし、もし今「ノーマン・ロックウェル」が「オバマ大統領」の姿を眺める時、ようやく人種差別を超えた社会状況をどんな絵で表現してくれただろうか?。彼が生きたアメリカの、その美しい面も・・それに醜い面もどちらも正直に描いたアメリカの画家「ノーマン・ロックウェル」。私は、先日、福島は「郡山市美術館」の『ノーマン・ロックウェル・展』にて、そんな彼の一生を垣間見た思いがした。