日本のゴッホ・・・「山下 清」 |
“これが原画か!”・・と、「山下清」の代表作、『長岡の花火』の前で釘付けになった。私はその色あせてしまったセピア色の貼り絵の、あらゆる細部に目を凝らし、愕然とした。2~3ミリ・・・と言った、肉眼でようやく確認できるほどの小さな紙片を、盛り上るほどに幾重にも重ねながら、この想像より遥かに大きい貼り絵の画面を埋め尽くし、見事描ききっているのである。(リトグラフとなった一回り小さいこの『長岡の花火』(右)は何度も見ているが、この原画は遥かに大きい。『長岡の花火』・1950年、清28歳)
私は先日、山形美術館の『山下清・展』で、知っているつもりだった、「芸術家・山下清」・「人間・山下清」にようやくたどり着いたような気がした。(画像は全て図録から。)
大正11年(1922年)、東京は浅草で生まれた「山下清」は、三歳のとき、重い消化不良にかかりながら三ヶ月後に完治するも、その後遺症から軽い言語障害と知的障害になってしまう。そのことが、小学校でいじめにあうことになるのであるが、そんな清は、記憶力だけはずば抜けていたようで、大人でも書けない「炬燵」・「麒麟」・「蜻蛉」・「蒟蒻」といった難解な漢字も当時からすらすらと書いたというのだから驚く。清の、このずば抜けた記憶力が、後になって彼を「日本のゴッホ」とまで言わしめる結果を生むことになるのだが・・・。
「山下清」・・と言えば、「裸の大将」・「放浪の画家」と言った印象だが、書籍やマスコミ、それにドラマや映画などでは、放浪先で絵を描き、様々な感動を残すストーリーとなっている。しかし、実際には旅先ではほとんど絵は描いていないのである。旅先で見た風物を自分の脳裏に焼き付け、それを旅から戻ってから、自分の記憶によるイメージを鮮明に描いていたのであった。その放浪の旅は数ヶ月、時には数年続いているのだから、それでも記憶が鮮明だと言うのだから驚く。しかも、寸分違わぬその“カタチ”は勿論、何といっても、清の“こころ”のフィルターを通すことで、実際よりも色鮮やかで暖かな絵になったというから、彼の内面の清らかさが現れているのかも知れない。
放浪の旅では、金銭や食事、寝るところと言った、普通ならこの決定的な不安は、清には全くなかったようだ。時に食堂で手伝いをしたり、旅先で仕事を見つけるも長続きしなかったり、しまいには“ひと”の善意にすがりながらの放浪の旅だったようだ。それに、私たちは、清の背中のリュックをつい思い出すのだが、実際にリュックを使っていた期間は2年程度と短く、当初は茶箱を抱えての旅であり、その後風呂敷、リュックと変化していくのだという。そして、いつの間にかあまりにも有名になった「画伯・山下清」がゆえに、自由きままなその放浪の旅に終止符を打つことになるのである。
会場の冒頭、「・・今までの“山下清”のイメージを一度外し、何の先入観も持たずに皆様の心の目でご観賞いただければ・・」と、主催者のごあいさつの中にそんな一言があったが、まさにその言葉通り、私たちがマスコミやドラマや映画で知る「山下清」とは、全く違っていたのである。
燃え上がるような力強い点描画のゴッホだが、時として、山下清の紙片一枚一枚が、ゴッホにも似た力強い油彩の点描画にも見えてくる。日本近代洋画檀の巨匠、「梅原龍三郎」・「安井曽太郎」両氏をして、「ゴッホやアンリ・ルソーに匹敵する」と言わしめたのは私たちも知るところだが、故・「池田満寿夫」氏は、「山下清の貼り絵ほど、日本の大衆に愛されたものはない。人々はそこに魂の郷愁を見るからであろう。清の貼りこめた風景は、まさに日本人の原風景に他ならない。」と。
私たちが、これほどまでに「山下清」の魅力に取り付かれてしまうのは、まさに私たち日本人の“魂の郷愁”に響いてくるからなのだろう。
49歳の若さにして、突然脳出血にて倒れ・・・
「今年の花火見物はどこに行こうかな・・」という最後の言葉を残して永眠した「山下清」。
今、「山形美術館」の、『山下清・展』が・・・面白い!。(11月28日まで)