『靖国神社』と・・“魂” |
遂に死ぬべき時は来た。帝国軍人として最大の名誉の時が来た。今より小生は昇天するのだ。思へば此の世に生をうけて二十有余年、短かくて長き人生だった。
・・・(中略)
小生も今死すべき最好機に恵まれたのだ。英米打倒而(しか)して東亜百年の大計、引いては人類の幸福、世界の平和の礎のために之が最適の死に場所だ。肉体は之で永遠に此の世を去る。而し魂は永遠に生きる。靖國へ行って待って居る。折があったら会ひに来られ度。
・・・・(後略)
御一同様
楠瀬益實 海軍一等兵曹、昭和十八年十月十二日、
ニューブリテン島方面にて戦死。
高知県高岡郡戸波村出身、二十三歳 。
私が初めて「靖国神社」を訪れたのは、昨年の何時ごろだったろうか?。それまでの私は、何度と無く東京を訪れるも、建築や美術館や芝居それに舞踏など、芸術に夢中で、「明治神宮」は訪れていても、とても気になりながらこの神社は一度も訪れることはなかった。でも、必ずや何時かじっくりと、そしてしっかりと受け止めてみたいと思っていたのがこの「靖国神社」だったのである。私は昨年のこの日、初めて「靖国神社」の正面に立った(下)。
この「靖国神社」は、「国民精神を戦争に駆り立てる役目を果たした」・・といわれるように、以前から様々な「靖国問題」を抱えていた。「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」・・と言った「政教分離に関する問題」。それに、「歴史認識・植民地支配に関する問題」や、A級戦犯が合祀されている・・といった「戦死者・戦没者慰霊の問題」など、専門家はもちろん、様々なところで議論されてきたこの「靖国神社」。私は、勿論それらの問題を承知しながら、そして、良くも悪しくもそれらの一つ一つ問題に自分なりの答えを、自分自身に語りかけながら、私はこの日、この「靖国神社」に眠る、「靖国で会おう」という合言葉の元、国のために?失ったたくさんの“いのち”に、心から手を合わせた。
今日は、終戦記念日を明日に控え、「玉音放送」が流れた8月14日。終戦記念日の明日15日、菅内閣の閣僚で、靖国神社参拝する意向を示したのは一人もいない。だが、それらの政治的な問題よりも、決定的なのは、つまり、例えば日本には「死んで詫びる」という精神があるが、中国には無く、この言葉は理解できない・・と言った、その国による死生観の違い・・。つまり、日本とアジアの国々の決定的な違いはこの「死生観」の相違が大きいのではないか?・・と。
日本の「民俗学者」、それに「国文学者」、「国語学者」、更に「釈迢空」(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもある「折口信夫」氏は、神道における人物神は、特に政治的な問題について、志を遂げることなく恨みを抱きながら亡くなった死者を慰めるために祀ったものであり、「護国の英雄」のように死後賞賛の対象となるような人物神を祭祀することは神道教学上問題がある、と述べている。