無念の“世界柔道選手権” |
(写真は今日の朝日新聞)
私もこの二人の試合を、録画ではあるがテレビで見ていた。
「井上庚生」は、警戒していたという18歳のリネール(仏)を攻めあぐね、焦りもあってか残り5秒
得意の足技を掛けに行き、相手は崩れて腰から落ちたが、井上はその流れで腕をつかまれ振り回され背中を付く結果になり有効を奪われた。
左の写真はその瞬間(以後写真は全てネットから)
「鈴木桂冶」は、試合二分過ぎに得意の大外刈りを掛け、相手は背中から落ちながら
横に振られ返され背中をついて一本を取られた。(写真)
自分の技が成功したと思ったこの二人とも
「え~・・・!」 という表情を見せ、しばらくその場から動けなかった。
判定は協議に持ち込まれ、斉藤監督も猛抗議するも結果は変わらなかった。
解説者の篠原信一が
「これでは柔道じゃ無くなってしまう!」
と怒りのコメント。
思い出せば、彼もシドニー五輪100kg超級決勝で、フランスの選手と対戦した際に
相手が内股をかけてきたその瞬間、篠原はそれを内股すかしで返した。
相手は背中から落ちるが、彼はその流れで片から崩れた。
判定は相手の有効、この時もまたあの山下監督が猛抗議をするも判定は変わらず
篠原は金メダルを逃したのだった。
この篠原の判定から、協議にはビデオも使用されることになったはずだが
二人の試合のこの微妙な判定に、ビデを見て審議することはなかった。
今回のこの結果は、間違った判定なのかも知れない!・・しかし
「判定は正しい。審判は最後に掛けた技を取るほうが多い。
だから最後まできっちり決めないとダメだ。」
国際柔道連盟・川口審判委員
今日の朝日新聞の記事の 「・・・最後まできっちり決めないとダメだ。」 この一言で
私に、見えなかった部分に気付かされ、厳しい言葉だが何故か心に残った。
柔道とは 「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」 を真髄とするがごとく
単なる勝利至上主義ではなく、精神鍛錬を目的としているのだ・・・
この柔道精神の「能く」(よく)というのは「念を入れて。」「手落ちなく。」「十分に。」
といった意味らしい。
ならばもう一度二人の試合を振り返るとき
私には、今回の井上・鈴木の両氏も、先に技を掛け決めながら最後のその流れに対して
警戒心が無かったように感じたし・・・「念を入れて。」 が疎かになったように見えた。
思えば、シドニーで金を逃したあの時の篠原も
相手は、崩された後瞬時に寝技を警戒し、うつ伏せとなり“かめ”になるも
篠原は一本勝ちと思い込んで寝技をかけることを怠り
彼も又 「念を入れて。」 が疎かになったのではなかったか。
(崩した後にすぐ寝技に入れば一本取れていたかもしれない。)
審判の 「れい!」 に始まり 「れい!」 で終わる柔道という競技。
その5分間、最後まで決して「能く」 を怠ってはならなかったのではなかったか。
柔道で勝ち続けることの難しさを思うとき、シドニーであの時の篠原が語った言葉を思い出す。
彼は 「自分が弱いから負けた」 とそれ以上言明もせず引き下がった・・そのことが
私には、むしろ疑惑の判定など吹き飛ばしてしまうほどの“柔道精神”らしさを感じ
判定に対する怒りよりも、むしろその潔さと爽やかさが心に残った。
今日の最後に
私にとっての”柔道”は、高校時代のその三年間、柔道を授業として学んだことにより
投げ飛ばす技術よりも、怪我をせず倒れる”受身”は、今でも体に染み付いている・・はずだ。