《 山形国際ドキュメンタリー映画祭2007 》 を振り返れば |
あっという間に一週間が過ぎた。
私達「市民賞」のメンバーも、あの“さよならパーティー”でこそ一同に介する事が出来たが
映画祭が終わった今、楽しみにしている“打ち上げパーティー”も
お互いの仕事との都合が合わず、今だに日程すら決められないでいるのだ。
私たちのメンバーだった十数人が一同に介することが
いかに難しかったかを今又痛感している。
期間中も、仕事の合間を縫って駆けつけ、それぞれ担当の映画館に張り付いていている
ものだから、お互い顔を合わせる事が意外に少なかったことも、今改めて思う。
連絡は携帯電話の他、もっぱら私達の控え室に置いているこの伝言用紙で
ようやく伝えることが出来たのだった。
そんな控え室も、今では懐かしく感じる。
今思えば、この映画祭で世界から駆けつけた監督達に、ひたすら「市民賞」という感動を伝える
ということのために、お互い大事な仕事を抱えながらも、だからこそ助け合いながら
一人一人が自分の責任を全うする事が出来たことに、今は感動すら感じている。
こんなボランティアに支えられて成功を収め閉幕となった映画祭の期間中
楽しかったイベントや、いろいろな感動とともに素敵な“人”との出会いも沢山あった。
メーン会場の七日町アズホールの正面では、期間中、国際色豊かに《地球の文化祭》が催され
お祭りとして賑わう人ごみの中に、ジャズフェスティバルとしてこのバンドによる音楽も流れた。
更に、あのメーン会場の4階のホールに、自分のコレクションなのだろうか
今回審査員として招かれたキドラット・タヒミック監督が、カメラの歴史を知ることが出来る
こんなコーナーを作ってくれた。
彼は、ドキュメンタリー映画の魅力を、今回のように何時もいろいろな“カタチ”で
表現して見せてくれる。
そんな キドラット・タヒミック監督はフィリピン・バギオ市生まれ。
彼は、この映画祭の第一回目に《虹のアルバム(僕は怒れる黄色)》という
ドキュメンタリー映画が特別上映作品として紹介されてからこの映画祭の常連となっているのだ。
彼の、個性的なファッションやこの風貌から、どの会場にいても彼だと直ぐにわかる。
今回の公式カタログで、この映画祭との関わりを彼はこんなふうに語っていた。
2007年は、魔法の絨毯に乗って世界各国の映画祭を回るようになってから
ちょうど30年にあたる。
私にとって山形という土地は、単なる映画祭の開催地以上の存在だ。
1989年に第一回が開催されて以来、山形国際ドキュメンタリー映画祭は、
アジアの映画作家たちに特別な集まりの場を提供してきた。
彼らは、盟友の小川伸介とともに
「アジアのドキュメンタリー映画は元気いっぱいだ!」という山形宣言を行った。
・・・・・
私達はセルロイドのフィルムの映像としても、生身の人間としても、あの場所に存在していた。
訪れるたびに、それはまるで家族との再会のようだった。
山形の観客たちは、《僕は怒れる黄色》の前のバージョンからも
ずっと息子達を見守ってきてくれた。
・・・・
この旅のもうひとつの目的は、小川さんが米粒から自分の部族を発見したように
私も自分の部族を見付ける事だ。
私もかつて、《僕は怒れる黄色》という映画に引き付けられとても感動した事を覚えているが
この映画は、終わりのない映画としていまも進化を続けているらしい。
彼は、今ではこの映画祭ではなくてはならない存在となっているのだ。
その他、メーン会場のアズホールには、映画監督を囲んでの「井戸端会議」なるものや
「科学劇場展示室」なども設けられた。
それとは別に
国内外から訪れたドキュメンタリー映画ファンが、各会場に押し寄せ客席を埋め尽くす中に
なにやらひときわ目立つ女の子を見つけた。
その子は、頻繁に出会うものだから私達「市民賞」の担当者とも顔なじみにもなり
僅かなその会話の中から彼女のこの「・・映画祭」にたいする並々ならぬ思いを感じる事が出来た。
(映画館ミューズに現れた彼女の写真。左側の小柄な人がその彼女なのだ。)
彼女のそのいでたちは、手作りなのだろう“丹前”に似た服をはおり
足にはセッタを履いて、背中には何が入っているのかパンパンになった真っ赤なリュックを
背負っているのだ。
どの会場でもひときわ目立つそのいでたちは圧倒的に個性的だ。
聞けば、友人二人で東京から軽トラを走らせ、なんとこの映画祭期間中、宿泊代を節約するため
山形市内の「馬見ヶ崎川」 の河川敷にテントを張っての映画三昧なのだそうだ。
先日、帰らぬ人となってしまったドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」の監督 故:佐藤真と
そのスタッフ達などが、同じく宿泊費を削るために河川敷にテントを張っていた事を思い出す。
今では、そんな観客も珍しくないが、女の子二人で・・・というのはたぶん初めてのことだ。
そのエネルギーから、ドキュメンタリー映画祭に対するどれだけの強い思いなのかが
うかがい知れる。
期間中二人は、お互い観たい映画を自由に観て回り、その日の夜街で待ち合わせるのだそうだ。
好きな映画を見終わった満足そうなそのきらきらした瞳と表情がとても印象的だった。
閉会式の後に行われた、主に関係者だけの“さよならパーティー”でも彼女の姿を見かけた。
世界の監督と接する事が出来るこのパーティー、勿論一般観客でも参加は自由なのだ。
彼女たちは今後何を目差すのだろうか、彼女の最後まで満足そうなその表情から
底知れないエネルギーと力強さも感じた。
でも、その“さよならパーティー”にいるはずの相方の姿をついに見つけることが出来なかった。
次回の2009年には又軽トラを走らせて来るのだろうか?
私は今、そんな彼女達ときっと又出会えるような気がしている。
そんな素敵な出会いもあったこの映画祭も大成功に終わり
そして「市川昭男」 山形市長が次回の開催に支援を約束
映画祭事務局も、二年後の次回開催に向けて早速その準備がスタートした。