光市母子殺害事件 “判決” |
広島高裁は、私にも理解できなかった被告の弁護団の主張を退き、差し戻し控訴審で22日、
一審の求刑通り“死刑”の判決を言い渡した。
(写真は全てネットから。)
私にも、この事件の惨さに“許せない!”という感情は当然ある。
被告の彼が、その後友人に出した遺族の感情を逆撫でするような信じられない手紙の文面や
メディアから伝えられるその言動からは、反省や謝罪の気持ちが私には全く伝わらなかった。
最高裁は2006年6月 「特に酌量すべき事情がない限り、死刑を選択するほかない」
と、二審判決を破棄、広島高裁に審理を差し戻した・・その瞬間から
彼の弁護団の不可解?な作戦が始まった。
当時、18歳と1ヶ月であった被告だが
当然、これまでと同じ主張を繰り返しても、“死刑”を逃れられないとするならば、被告に有利な新たな証拠や、全く違う作戦を考えるのはプロの弁護団として当然なことなのだろう。
被告の弁護を引き受けたからには、被告の利益に繋がる・・ありとあらゆる方法・作戦を立て、その裁判で戦おうとするのも当然正当な方法なのだ・・ということは、私も勿論承知している。
ただ、その方法や主張が、私も含め、少なくとも大半の国民に理解されないならば・・・・
果たしてその手段は、被告の利益に繋がるのだろうか?。
“裁判”というものを知らない素人の私たちが、来年度から始まる「裁判員制度」を
どう受け止めるかによっては、この弁護団のように、裁判を欠席したり
「魔界転生」や「ドラえもん」を持ち出したりすることが、それがたとえ・・たとえ「真実・・・?」
なのだとしても、かえって「裁判員」に悪い印象を与え、被告に不利になりかねない!・・
ということを、この弁護団は想像できなかったのだろうか。
だからこそ私は、目に見えない”しんじつ”というこの言葉の危うさ・・と怖さを改めて感じる。
彼の言う「ドラエモン」などが、もし、もしもこの二十数人による被告の弁護団の入れ知恵では無く、彼が突然言い出した「真実?」なのだとしても、私たちにはそれを見抜けるすべは無い。
又逆に、突然強い反省や、心?からの謝罪に終始したとしても、それが被告の真実なのかも私たちには知るよしも無い。
でも「裁判員」になるだろう私たちは、被告の主張する「真実」が信用できるものなのかは、様々な情報や、私たちの常識や倫理観・そして感情で“裁く”意外に方法は無い。
「虚偽の弁解を展開して遺族を愚弄する態度は反省とはほど遠い。」
「事実と違うのなら、起訴後六年半にわたり黙っていたのは不自然で不合理だ。」
「犯した罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑を免れようと懸命になっているだけ。」
という楢崎康英裁判長の判決理由には、私は整合性を感じ、そして説得力があり理解できた。
被告の弁護団が、もし本当に被告しか知りえない真実に迫り・・その彼を救おうとするならば
「魔界転生」や「ドラエモン」では無く、誰にも理解できるような、たとえば被告の心からの反省と謝罪の”こころ”を導き出し、限りなく更正の可能性を訴えるべきではなかったか。
死刑制度反対論者だというこの弁護団、遺族の感情を深く理解しようとする心の希薄さと
”死刑”だけは免れようとしたこの方法・・それが被告をかえって”死刑”に・・より近づけてしまった・・・
とは、言いすぎだろうか?
「最後まで事実を認めて誠心誠意、反省の弁を述べてほしかった。」
「そうしたら、もしかしたら死刑は回避されたかもしれない。」
遺族でありながら、奪われた二つの“いのち”と、今奪われようとしている一つの“いのち”を
冷静に見つめながら、その記者会見で語った本村洋さん(32)のこの言葉には
“ひと”に伝わる深さがあった。
被告側の弁護団の上告によって、まだまだ続くこの裁判。
「最高裁が、差し戻し・・では無く、何故判決を下さなかったのか!」という疑問は別として、一般市民の私は、軽々には裁けないだろう「裁判員制度」に向けて、“ひと”が“ひと”を裁く難しさを、メディアの様々な映像を眺めながら今改めて感じていた。
(今日の朝日新聞:第一面)
「どうすれば死刑のような残虐な判決を下さなくてもいい社会ができるのか?」
「3人の命を社会は見つめてほしい!」
本村洋さんが語気を強め語ったこの言葉が・・私の心に強く残った。