青森その③ 「寺山修司記念館」 |
死んでしまったのだ ジェームス・ディーンの机の抽出しに
いまも忘れられている模型飛行機のカタログよ
歌うな数えよ 数だけが政治化されるのだ ブエルトリカンの
洗濯干場の十万の汚れたシーツよ
時代なんかじゃなかった 飛べば空なのだ すっぽりと涙よ
アメリカにも空があって エンパイヤーステートビルから
僕の心臓まで 死よりも重いオモリを突き刺す
パンアメリカン航空のカレンダーよ
キリーロフは見捨てよ 圭子はあこがれる
ジャック・アンド・ベティーのマイホーム ニューギニアの
海戦で俺の親父を殺したアメリカよ
コカコーラはビル街を大洪水にたたきこむカーク・ダグラス
の顎のわれ目のアメリカ ホットドックにはさまれた
ソーセージが唸り立つ勃起のアメリカ
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『マルのピアノにのせて時速100キロで大声で読まれるべき六五行のアメリカ』 より 寺山修司
(写真は全て公式カタログより)
戦争で病死した父、母とともに1945年の青森大空襲により逃げ惑い焼け出されながら、その後米軍キャンプで働く母ハツ。この時10歳だった寺山修司の心に、アメリカがどう映っていたのだろうか。
青森県三沢市にある「寺山修司記念館」の壁に掲げられた「言葉の錬金術師」の異名をとる・・そんな彼のこの詩を、私は、皮肉にも「米軍三沢基地」から真上を飛び交う戦闘機?の爆音を聴きながら読んでいた。
詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家・・・それに、演劇実験室・「天井桟敷」主宰。
彼は本業を問われると決まって「僕の職業は寺山修司です」と答えた・・という。
私はこの「寺山修司記念館」に埋もれながら、果てしない彼の宇宙を暫くの間彷徨っていた。
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「その晩遅くなってからわが家に火事があり、近所の家まで焼けてしまった。」
「警察では漏電だといったが嘘だった。」
「ほんとはおれが机の引き出しにかくしておいた一匹の蛍が原因だったのだ。」
・・・・・・
私は以前、こんなセリフを主人公に語らせる「田園に死す」という、・・彼の自伝的映画を観たことがあった。勿論その時の私には、寺山修司の世界など解るはずも無く、ただただ前衛的な新鮮さに引き込まれながらも私の“どこか”に響くものを感じ、見入った記憶がある。
この・・引き出しにかくしておいた一匹の蛍・・・や、彼の歌集「テーブルの上の荒野」がごとく、彼は「机」という言葉に限りない広がりを持たせようと試みた・・という。
47歳にて自分の存在を不確かなものとして旅立って行った・・・そんな彼を表現するがごとく、この記念館は、広いホールに多くのこんな同じ机と椅子が置かれていて、この暗闇の中、私たちは懐中電灯を手に持ちながら引き出しを探り、まさに“寺山修司”を探し出す・・という、そんなコンセプトのもとに構成されていた。
私も、一つ一つこの椅子に座り引き出しをまさぐるように、私の知らない“寺山修司”を長い間探していた。
私は、ようやくこの記念館を出て、この三沢市民の森公園を、ところどころにある彼の歌碑を読みながら、寺山修司の世界の余韻を味わうように、暫し爽やかな風の心地よい森の中を楽しんでみた。
私の「寺山修司記念館」を訪ねる旅は、三沢市民の森公園の中にあった“粟津潔デザイ”だという「寺山修司顕彰文学碑」の正面にたどり着き、生い茂る緑の中で彼の詩を、55年生きてきた私の精一杯の“こころ”・・で繰り返し・・読む・・ことで終わった。
君のため一つの声とわれならん失いし日
を歌わんために
一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわ
れの処女地と呼びき
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つ
るほどの祖国はありや